本文
川崎は、多くの歴史が息づくまち。
歴史との出逢いが、川崎の新しい魅力へとつながっています。
笹谷街道とは、江戸時代に整備された道で奥州街道から笹谷峠を越え、山形に通じる街道です。その起点は二つ。 奥州街道の宿場町宮(宮城県蔵王町)を起点として四方峠を越えて川崎へ。もう一方は仙台城下から北目町を起点にして長町で奥州街道と分かれ、さらに赤石で 二口街道と分かれて川崎へ通じている道です。宮城山形を結ぶ東北自動車道と山形自動車道は「笹谷街道」と一致。古代は戦の場所として、また、文化と交流の 場所として、道程にはさまざまないにしえの香りがただよっています。
笹谷街道は太平洋側と日本海側を結ぶ重要な街道として栄え、両州の境ということで関が設けられていました。それが八丁平の頂上であり、現在は関跡に標柱が建てられています。 名前の由来は風土記に記されており、それによると、昔関山には、山鬼があらわれ往来する旅人を襲って食べていました。そんな時一番(ひとつがい)の神烏がこの山に住みつき、旅人が峠にさしかかると、山鬼がいるときは「有也」と鳴き、いないときは「無也」と鳴いて山鬼の有無を知らせ、旅人はその害から逃れる事ができたということです。
交通アクセス:川崎町まで
山形自動車道、宮城川崎インターチェンジから車で40分
笹谷街道の旧道に六体の地蔵がありますが、これは昔、六人の人夫が荷を負って吹雪の中顔をそむけそむけ懸命に 歩いたが、ついに力つき凍死してしまい、その霊を慰めるためと道しるべの役割を含めて建てられたと伝えられており、約80m間隔に立っています。雨の日 も風の日もそして吹雪の日でも、この六地蔵をたどっていけば無事に八丁平を越えることができるそうです。六体は山形県側に存在。言い伝えによって発見 (昭和58年11月13日)された七体目の地蔵は町内にあります。
交通アクセス:川崎町まで
山形自動車道、宮城川崎インターチェンジから車で40分
国道286号となって今では、車だけがどんどん通過していますが、今に残る松並木は旧街道の面影を残していま す。排気ガスで大分枯れてしまい惜しまれていますが、国道沿いに残るこんな並木はまことに珍しいもの。たまにはゆっくりこの遠望を楽しんでいただきたいも のです。なお、松並木は大正8年ごろ川崎青年団が植栽したと伝えられています。
交通アクセス:川崎町まで
山形自動車道、宮城川崎インターチェンジから車ですぐ
砂金氏11代砂金右兵衛実常(常房)公が慶長13年川崎城を築城、元禄15年まで居城とした。これが川崎要害であります。砂金氏没後、伊達氏は最上境の要衝の地として伊達一門を配し、笹谷街道沿いの備えに万全を期しました。街道の中心を流れていた川は埋め立てられましたが、今に見る街並みはその当時のままであり、城(舘)址は、城山公園として桜の名所となり四季を通じ憩いの場となっています。
交通アクセス:川崎町まで
山形自動車道、宮城川崎インターチェンジから車で3分
開創は古く、平安後期といわれております。明治初期、現在地に真言宗智山派の直末寺として中興開山。本尊は、 延命地蔵菩薩であり、丈三尺位の塑像で平安末期頃の作、国宝級と言われています。脇仏としてマリア観音像が安置されており、墓地内には支倉六右衛門常長 の墓があります。
交通アクセス:川崎町まで
山形自動車道、宮城川崎インターチェンジから車で20分
天文12年(1543)支倉紀伊常正が上楯城主となる。大手門から直進して300mで三の丸、その東南部を回ると一段と高いところが館山の頂上で、平坦地約2haが本丸跡で竹林と杉林に覆われています。西部の空壕を越えると二の丸、その壕の延長部分 の北部が巨大な壕となって本丸の背後を画し、外部との接触を絶っています。三の丸の右側が曲輪、つづいて馬場へと連なり、館山一山を城砦とした壮大な連廓 式山城で、曲輪の真下が円福寺という形状を示しています。現在は公園として整備され、周辺の散策ができるようになりました。
交通アクセス:川崎町まで
山形自動車道、宮城川崎インターチェンジから車で20分
圓福寺より徒歩
支倉六右衛門常長は、伊達政宗の命により慶長18年9月15日(1613年10月20日)イスパニア(スペイン)、ローマへ使節として、宣教師フライ・レイスソテロ、答礼使セバスチャン・ピスカイノ等とともに宮城県牡鹿郡月の浦港を出帆しました。そして国王フィリッポ三世、法王パウロ5世に謁見し、使節として大使命を果たして、元和6年8月26日(1620年9月22日)帰朝しました。
8年の歳月を経た日本は、幕府の鎖国令・キリスト教弾圧の厳しい世相に急変していました。常長は幕府の目を逃れ、支倉家の領地であるこの地に隠棲していましたが、2年後の元和8年7月1日(1622年8月7日)、52歳の波乱にとんだ一生を終えたと伝えられており、その墓が支倉円福寺墓地に祀られています。
交通アクセス:川崎町まで
山形自動車道、宮城川崎インターチェンジから車で20分
圓福寺内
青根温泉街の裏山一帯は自然林で、約1時間ほどで廻れる遊歩道があります。小鳥のさえずりを聞きながら歩いていくと野鳥の森自然公園に辿りつきます。公園の広場には、作曲家古賀政男先生不朽の名曲「影を慕いて」歌碑があります。川崎町は、日本の心を歌にこめた作曲家・古賀政男氏にとって青春の1ページを飾る忘れ得ぬ出発の地なのです。
交通アクセス:川崎町まで
山形自動車道、宮城川崎インターチェンジから車で20分
青根にある不忘閣は、伊達家の「御殿湯」であったことが広く知られています。特に5代藩主吉村以降は、詳しい入浴日記も残されているほどで、かの伊達政宗公を始めとする歴代藩主が、藩政の合間にしばしば入湯していたことがうかがわれます。
また、山本周五郎原作の「樅の木は残った」(NHK大河ドラマで放送)にも主人公・原田甲斐が樅の木を残す縁の地として、この青根温泉が登場します。青根温泉は伊達家の保養所として、1528年に発見して以来、480余年の歴史を誇っている名湯なのです。
交通アクセス:川崎町まで
山形自動車道、宮城川崎インターチェンジから車で20分
国内有数の古木で天然記念物として国の指定を受けた文化財です。樹下を流れる渓流に小さな滝があることからこの名がつけられました。フジは根元から三幹に分かれ、全体の根元周りは570cmの太さを持ち、我が国最大級のフジ。
交通アクセス:川崎町まで
山形自動車道、宮城川崎インターチェンジから車で15分
前九年の役の天喜四年(1056年)八幡太郎義家が安倍貞任の敗走軍を追ってこの地にさしかかって休息したとき、持っていた銀杏の鞭(むち)を逆さに地にさし、そのまま忘れていったものが根をはり、今日に至ったと伝えられています。
鞭なるが故に上の方は太く、下の方は細いことから逆銀杏の名があるといいます。町内最古の雄株の大木で、未だに樹勢が盛んで枝張りも30m程にもおよびます。
乳柱の出も短いが至るところに見られます。
交通アクセス:川崎町まで
山形自動車道、宮城川崎インターチェンジから車で5分
より大きな地図で 川崎町名所・旧跡<外部リンク> を表示(画面左に場所のメニューが表示されます)
© 2022 Kawasaki Town.